生年月日1965年6月24日
出身地:徳島県

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冬は必ず春となる!(悪世末法を生きる)

ブログ

謗法厳戒とは何か

― 正法に生きる私たちのやさしくも厳しい道 ―

「謗法厳戒」という言葉に、
どこか厳しさや怖さを感じる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、日蓮正宗における謗法厳戒とは、
人を裁くための教えではなく、
**人を不幸から救うために、どうしても外すことのできない仏法の要(かなめ)**です。

末法の今、私たちはさまざまな価値観や宗教、考え方が混在する社会の中で生活しています。
その中で、「正法を信じているだけで本当に大丈夫なのか」
そんな疑問を抱くこともあるでしょう。

日蓮大聖人は、その疑問に対して、はっきりと答えを示されています。


謗法とは「悪口」ではありません

謗法とは、
単に正法を否定したり、誹謗中傷したりすることだけを指すのではありません。

正法ではない教えを正しいものとして受け入れ、
それを見過ごし、同調してしまうこと

これもまた、謗法に与同する姿であると説かれています。

日蓮大聖人は、

  • 謗身(自分自身の謗法)
  • 謗家(家庭における謗法)
  • 謗国(社会・国家の謗法)

という三つの視点から、
謗法の恐ろしさを明らかにされました。

たとえ自分自身が正法を信じていたとしても、
家庭や社会の謗法を「仕方がない」「関係ない」と放置してしまえば、
その影響から完全に逃れることはできない――
これが大聖人の厳然たる御教示です。


謗法の与同を免れる「唯一の道」

では、謗法があふれる現代社会の中で、
私たちはどのように生きればよいのでしょうか。

その答えは、決して難しい理屈ではありません。

謗法の人々に対して、
本仏・日蓮大聖人の限りない慈悲を拝し、
親が子の過ちを案じるような心で、
その誤りを正そうとする姿勢を持ち続けること。

これこそが、
謗法の与同を免れる、ただ一つの道なのです。

大切なのは、怒りでも否定でもなく、
「このままでは不幸になる」
「正しい道がある」
と、真剣に相手の幸せを願う心です。

沈黙することが優しさではありません。
曖昧に流すことも、慈悲ではありません。


まず自分自身の信心を整える

日蓮正宗の信心の出発点は、
この仏法こそが、唯一最高の成仏の大法である
と、腹の底から信じ切ることです。

その上で、私たちはまず自分自身の「身の謗法」を厳しく見つめます。

大聖人が示された十四の誹謗――
憍慢、懈怠、計我、浅識、著欲、不解、不信、疑惑など。

これらは誰もが陥りやすい心の働きであり、
決して他人事ではありません。

だからこそ、
日々の信心の中で自分を省み、
正法に照らして生き方を正していくことが大切なのです。


家庭へ、社会へ、そして広宣流布へ

自分の信心が整ってくると、
自然と「家族にも幸せになってほしい」
「この社会を良くしたい」
という思いが芽生えてきます。

それが、家の謗法を除き、国の謗法を破していく第一歩です。

折伏とは、
誰かを論破することでも、強制することでもありません。

正法を知った者が、
その喜びと確信を、誠実に伝えていく行為
です。

それは、小さな一歩かもしれません。
けれど、その一歩一歩が集まって、
広宣流布という大きな流れが生まれていきます。


私自身の決意として

最後に、私自身の気持ちを正直に書きたいと思います。

この信仰を貫く覚悟は、できています。
たとえ自分が罪業深き人間であったとしても、
今、この時に始めなければ、
誰も幸せにすることはできず、
自分自身もまた幸せにはなれない
と、はっきり分かるからです。

今のこの気持ちのままに折伏を始めなければ、
広宣流布の一翼を担うことはできません。

完璧になってからでは遅い。
自信がついてからでは遅い。

「今」立ち上がること。
それこそが、日蓮大聖人の仏法に生きるということだと、私は信じています。

注意事項・こちらのブログは、日蓮正宗の見解ではございません。あしからず、ご了承ください。また、少しでも、ご興味があれば、お近くの日蓮正宗の寺院を検索していただき、ご住職様にアポを取って、お話を聞いていただければと存じます。本日も読んでくださり、ありがとうございました。

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