生年月日1965年6月24日
出身地:徳島県

mayuminをフォローする

冬は必ず春となる!(悪世末法を生きる)

ブログ

悪口・愚痴・他人を貶める心は
「生命の境涯(十界)」の問題であり、
同時に「魔の働き」とも関係します。

以下、日蓮大聖人の御書の中で、特に押さえるべき箇所を整理します。


① 『四条金吾殿御返事』

(いわゆる「蔵の財より身の財」)

有名な御文

「蔵の財よりも身の財すぐれたり
身の財より心の財第一なり」

ここで大聖人は、
最も大切なのは「心の財」=境涯であると示されます。

悪口や愚痴ばかりの人は、
外的条件ではなく、
心の財が貧しい状態であると捉えられます。

👉 ブログ視点
「人間性が最低」と断罪するのではなく、
「境涯が低い状態」と仏法では見る、
という整理ができます。


② 『立正安国論』

ここで示される根本原理は、

「邪法がはびこると、国が乱れ、人心が荒れる」

悪口・誹謗・慢心・傲慢が横行する社会は、
正法が軽んじられている結果であると位置づけられます。

つまり問題は個人だけではなく、

  • 正しい価値基準が失われた社会
  • 自己中心の思想が蔓延する時代

という**末法の相(すがた)**でもあるのです。


③ 『兄弟抄』

ここが極めて重要です。

大聖人は、

「法華経の行者を罵る者は無間地獄に堕つ」

と、誹謗の罪の重さを厳しく説かれます。

なぜそこまで重いのか。

それは、

  • 他人の善根を断つ
  • 正義を嘲る
  • 正法を軽んじる

行為だからです。

単なる愚痴ではなく、
人を下げることで自分を保つ心は、
仏法上、重大な罪業とされます。


④ 『開目抄』

ここで示されるのは、

「三障四魔は必ず競い起こる」

悪口や攻撃的な人物は、
しばしば正しい方向へ進もうとする人の前に現れます。

つまり、

  • 自分が前進しようとするとき
  • 境涯を上げようとするとき
  • 正しい信仰を守ろうとするとき

魔の働きとして
周囲に“低い波動”が現れることがある

という見方ができます。


⑤ 十界論からの整理

悪口ばかり言う人は、
主に

  • 修羅界(嫉妬・競争)
  • 餓鬼界(不満・渇望)
  • 地獄界(怒り)

の状態に傾いています。

大聖人の仏法は、
「その人を断罪する」のではなく、

その境涯から抜け出せない哀れさを見る

という立場です。


では、どうするべきか?

御書の立場から言えば三つです。

① 同調しない(悪口に加担しない)

誹謗に耳を貸すこと自体が縁になります。

② 境涯を上げる(唱題・信心)

相手を変えようとする前に、
自分の一念を強くする。

③ 離れる決断も智慧

仏法は「我慢教」ではありません。
環境を選ぶのも智慧です。

『上野殿御返事』などでも、
悪縁を避ける智慧が示唆されています。



① 仏法でいう「悪縁」とは何か

まず前提として、

人そのものが“悪”なのではない
縁(環境・言葉・思想)が生命に影響する

これが仏法の立場です。

■ 縁起の法

仏法では「縁起」が根本原理です。

  • 何を見聞きするか
  • 誰と交わるか
  • どんな言葉を浴びるか

それらはすべて、自分の一念に影響を与えます。


■ 悪縁とは

悪縁とは、

  • 正しい心を鈍らせるもの
  • 信心を軽く扱わせるもの
  • 誹謗や慢心に慣れさせる環境

です。

『松野殿御返事』等でも、
悪知識(間違った教え・誤った導き)の恐ろしさが説かれます。

悪口ばかりの場にいると、

  • 心が荒れる
  • 他人を軽く見る感覚に慣れる
  • 自分も少しずつ染まる

これは霊的というより、極めて現実的な生命作用です。


■ 一番怖いのは「慣れ」

最初は嫌悪感がある。
しかし次第に、

「まあ、みんな言ってるし」
「仕方ないよね」

となる。

これが悪縁の浸透です。


② 離れることは逃げか?智慧か?

ここが大事です。

仏法は忍耐だけを勧めません。

■ 逃げとは何か

  • 自分の課題から目を背けること
  • 感情的に投げ出すこと
  • どこへ行っても同じ問題を繰り返すこと

これは逃避です。


■ 智慧とは何か

  • 自分の境涯を守るための選択
  • 修行の妨げになる縁を整理する決断
  • より良い環境に身を置く勇気

これは仏法的智慧です。


日蓮大聖人の姿勢

大聖人ご自身、

  • 邪宗の僧侶とは決して同調しなかった
  • 誹謗に対しては厳然と戦われた
  • しかし無意味な同席はされなかった

つまり、

正義は守る
しかし無駄な場所には居続けない

という姿勢です。


③ ではあなたの場合は?

あなたが

  • 受け入れられないと感じる
  • 心が疲れる
  • 信心が鈍ると感じる

なら、それは

生命がその環境を拒否しているサインかもしれません。

仏法は、

「どこにいても我慢しろ」ではありません。

むしろ

正しい縁を選ぶことが修行

です。


「無間地獄」とは何か

― 仏法上の意味と生命論的解釈 ―

「法華経の行者を罵る者は無間地獄に堕つ」

この文言は非常に強烈です。
しかし、ここでいう「無間地獄」は単なる脅しでも、物理的な地下世界の話でもありません。


① 無間地獄の語義

「無間」とは、

  • 苦しみが絶え間なく続く
  • 一瞬の安らぎもない
  • 因果の間断がない

という意味です。

仏教では八大地獄の最下層に位置し、
最も重い罪業の報いとして説かれます。


② 仏法的に見る“無間地獄”

日蓮大聖人の教えに照らすと、
無間地獄とは単なる死後の世界ではなく、

生命状態(境涯)の極限の苦悩状態

を指します。

具体的には:

  • 何をしても満たされない
  • 常に怒り・恨み・嫉妬に支配される
  • 安心・信頼・喜びが一切生まれない
  • 自己破壊的な思考から抜け出せない

これが「間断なき苦しみ」です。


③ なぜ法華経誹謗がそこまで重いのか

ここが核心です。

法華経(妙法)は、
「一切衆生が仏になれる」という究極の希望を説く法です。

それを誹謗するということは、

  • 他人の成仏の道を断つ
  • 自分自身の仏性を否定する
  • 希望そのものを踏みにじる

という行為に当たります。

つまり、

自分の仏界を自ら閉ざす行為

これが最も重いとされる理由です。


④ 無間地獄は“怒りの固定化”

十界で見ると、

  • 修羅界(怒り)
  • 地獄界(絶望)

が固定化し、そこから動けない状態が無間です。

通常、人は六道を行き来します。

しかし誹謗を重ねると、

怒り → 正当化 → 慢心 → 破壊
という循環が止まらなくなります。

それが「無間」です。


⑤ 重要:無間は永遠ではない

日蓮仏法の立場では、

どれほど深い罪業でも、
妙法に帰依すれば必ず救われる。

これが根本です。

無間地獄は「固定された生命状態」であって、
永遠に抜け出せない呪いではありません。

だからこそ折伏が必要なのです。


まとめ

無間地獄とは:

  • 苦しみが間断なく続く生命状態
  • 怒りと絶望が固定化した境涯
  • 仏性を自ら閉ざした結果

しかし、

妙法に帰ることで必ず転換できる。

だから大聖人は厳しく誹謗を戒め、
同時に限りない慈悲で救済を説かれました。


なぜ「罵る」ことがそこまで重罪なのか

― 言葉の因果と生命作用 ―

「法華経の行者を罵る者は無間地獄に堕つ」

なぜ“罵る”という行為が、そこまで重い罪とされるのでしょうか。

感情的な話ではありません。
仏法は、言葉を“業(ごう)”として捉えます。


① 言葉は“業”である

仏教では三業を説きます。

  • 身業(行動)
  • 口業(言葉)
  • 意業(心)

罵りは単なる音ではなく、口業です。

口業は、意業(心)を外に固定化したものです。
つまり、

罵る=内面の悪意を現実世界に刻印する行為

なのです。


② なぜ法華経の行者への罵りが重いのか

ここが核心です。

法華経の行者とは、

  • 一切衆生の成仏を信じ
  • 妙法を弘めようとする存在

です。

それを罵るということは、

  • 成仏の可能性を否定する
  • 仏の慈悲を嘲る
  • 正法の流布を妨げる

ことになります。

つまり、

仏性そのものを攻撃する行為

だから重いのです。


③ 生命の構造上の理由

一念三千の法理から見ると、

言葉は単なる表現ではありません。

言葉は、

  • 自分の生命を方向付ける
  • 相手の生命に種を落とす
  • 空間に因果を形成する

働きを持ちます。

罵りを重ねると、

怒り → 慢心 → 正当化 → 固定化

という流れが生じます。

その結果、

自分の生命が修羅・地獄に定着する。

これが「無間」に繋がる構造です。


④ 罵りは“自己否定”でもある

もう一段深く見ると、

他人の仏性を否定する行為は、

同時に自分の仏性を否定する行為です。

なぜなら、

依正不二の原理により、

外をどう見るかは自分の境涯だからです。

罵るという行為は、

自分の生命の低い境界を強化してしまう。

だから重罪なのです。


⑤ ではどう受け止めるべきか

大事なのは、

「罵った人を断罪すること」ではありません。

本当に恐ろしいのは、

その人の生命が固定してしまうことです。

だから大聖人は、

誹謗を厳しく戒めつつも、
救済の道を常に残されました。


結論

罵りが重い理由は:

  • 言葉は業である
  • 仏性を否定する行為になる
  • 自己の生命を地獄界に固定する
  • 正法流布を妨げる

だからこそ、

私たちは言葉を慎まねばならない。

同時に、

罵られても自分が罵らない。

これが行者の姿勢です。


注意事項・こちらのブログは、日蓮正宗の見解ではございません。あしからず、ご了承ください。また、少しでも、ご興味があれば、お近くの日蓮正宗の寺院を検索していただき、ご住職様にアポを取って、お話を聞いていただければと存じます。本日も読んでくださり、ありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました