🌸「日顕上人をめぐる誤解と私の体験」
私は、ある時期まで創価学会に所属しており、その中で日蓮正宗に対する指導を受けていました。
しかし、今振り返ると、その指導の中には行き過ぎた部分が多く、私自身もそれを冷静に見抜くことができないほどに、うまく“説明されて”いました。
当時、日顕上人猊下は創価学会にとって「敵視される存在」のように扱われていました。
一人で矢面に立ち、強い批判を浴びながらも、日蓮正宗の法門と日蓮正宗の僧侶や信徒を守り通されたお姿は、後になってみれば、非常に孤高で、揺るぎないものだったのだと感じます。
創価学会内部では、幹部が日蓮正宗について事実とは異なる説明をしたり、誤った情報がそのまま指導として流れてしまうこともありました。
私はその頃、そうした情報を疑いもなく受け入れ、日蓮正宗を否定的に見るようになっていました。今思えば、周囲の雰囲気や説明に、巧みに誘導されてしまっていたのです。
しかし、時間が経ち、状況を冷静に見つめ直すことで、当時は気づけなかった“偏り”や“誤解”に見えない形で縛られていた自分に気づくようになりました。
その気づきが、私の信仰の見方にも、大きな転機を与えてくれました。
🌸信仰の転機
私が信仰の転機を迎えた大きなきっかけは、
**ご本尊様に向かって祈る時の「心の反応の違い」**でした。
もともと私は、日顕上人のご本尊様に祈っていた頃、
自然と胸の奥から歓喜がわき、
やることなすことが不思議とスムーズに流れていくのを、日々強く感じていました。
祈りがまっすぐ自分の心に響き、安心感と力が湧いてくる——
そんな感覚があったのです。
ところがある日、創価学会の幹部から
「みんなでご本尊を交換する流れだから、日寛上人のご本尊様に交換しましょう」
と勧められ、私もそれに従って交換しました。
その瞬間から、状況が大きく変わりました。
どれだけ必死に祈っても歓喜が湧かず、
毎日3時間祈っても心に届かないような空虚さが続きました。
それどころか、会社でひどいパワハラに遭ったり、
大きなケガを負ったり、
人生全体が重たく苦しい方向へ向かっていくように感じたのです。
「なぜ、こんなにも違うのだろう…?」
その疑問を抱えていた頃、ある法華講員の方のブログに出会いました。
そこで私は、自分が交換したご本尊が本来のものではない可能性がある
という事実を知り、大きな衝撃と同時に、多くの点が腑に落ちました。
そこから、私は再び日蓮正宗のご本尊様に向き合うようになり、
毎日の祈りの中で、あの頃感じていた深い歓喜が戻ってきました。
祈れば心に通る。
祈れば、物事が流れ始める。
まったく違うのです。
私はこの体験を通して、
信仰が正しい方向にある時と、そうでない時の違いを、
身をもって感じるようになりました。
純粋に信じて学会で祈っている多くの方々も、
内心では「何かが違う」と感じ始めているのではないでしょうか。
その気づきが、私にとっての転機になったように、
誰かの心にも、きっと同じような気づきの時が訪れる——
今はそんなふうに感じています。

注意事項・こちらのブログは、日蓮正宗の見解ではございません。あしからず、ご了承ください。また、少しでも、ご興味があれば、お近くの日蓮正宗の寺院を検索していただき、ご住職様にアポを取って、お話を聞いていただければと存じます。本日も読んでくださり、ありがとうございました。

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