「僧を敬うとは、どういうことなのか?——信仰者から寄せられた一つの疑問」
はじめに
先日、ある信仰者の方から、こんな疑問を聞きました。
「三宝の教えで“僧を敬う”とありますが、
僧の言葉や態度に違和感を覚えたとき、
それでも無条件に信じ続けなければならないのでしょうか?」
この問いは、
決して特定の誰かを否定するものではなく、
信仰を大切にしているからこそ生まれる、
とても真剣な疑問だと感じました。
Q1.日蓮正宗では、僧は信仰者より「上」なのでしょうか?
仏教、特に日蓮仏法の基本に立つと、
僧が信仰者の上に立つ、という序列思想はありません。
三宝の「僧」は、
- 法を正しく護持し
- 教えを伝える役割を担う存在
であって、
人格的に常に上位である、
あるいは信仰者を支配する立場、
という意味ではありません。
仏教には
「依法不依人(えほうふえにん)」
――法に依って、人に依らざれ
という大切な教えがあります。
これは、
人ではなく、法を基準にしなさい
という意味です。
Q2.威厳を強く感じる僧と、物腰の低い僧がいるのはなぜ?
この疑問も、とても自然です。
実際、多くの信仰者の方が、
- 物腰が低く
- 相手を立て
- 話を丁寧に聞いてくれる僧侶に
深い尊敬を抱いてきた経験を持っています。
そのため、
もし僧が、
- 僧が上、信仰者が下
- 指導する側と、従う側
という構図を強く出してくると、
違和感を覚えることは不思議ではありません。
これは「僧が悪い」「信仰者が弱い」
という話ではなく、
僧侶一人ひとりの人柄・伝え方・信念の違い
によるものです。
Q3.その違和感は、不信心なのでしょうか?
結論から言えば、
違和感を覚えること自体は、不信心ではありません。
仏法は本来、
- 人を萎縮させる
- 沈黙させる
- 恐怖で従わせる
教えではありません。
もし、
- 話すのが怖くなる
- 自分の考えを出せなくなる
- 小さくなってしまう
そう感じるなら、
それは信心の欠如ではなく、
命が正直に何かを感じ取っているサインとも考えられます。
Q4.では、信仰者はどう向き合えばよいのでしょうか?
仏法において、
信心の主体は常に一人ひとりの信仰者です。
- 僧を敬うこと
- 法を大切にすること
と、
- 思考を止めること
- 判断をすべて委ねること
は、同じではありません。
疑問を持ったときは、
- すぐに結論を出さなくていい
- 静かに考えていい
- 一度立ち止まってもいい
仏法は、
考えることを禁じる教えではないからです。
おわりに
この疑問を投げかけてくれた方は、
信仰を軽んじているのではなく、
むしろ大切にしているからこそ、悩まれていました。
仏法は、
人を縛るためにあるのではなく、
人が自分の命と向き合うためにある
その原点を、もう一度静かに思い出すきっかけになれば幸いです。
最後に桜梅桃李の教えを少し載せます。「桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李なり。
其のままの姿にて妙法を顕すなり。」(御義口伝)
通解 それぞれが、他と比べることなく、
自分に与えられた姿のままで仏法を生きてよい、という教えです。

注意事項・こちらのブログは、日蓮正宗の見解ではございません。あしからず、ご了承ください。また、少しでも、ご興味があれば、お近くの日蓮正宗の寺院を検索していただき、ご住職様にアポを取って、お話を聞いていただければと存じます。本日も読んでくださり、ありがとうございました。

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