冬は必ず春となる ― 悪世末法を生きる㉑
🍀折伏の難に負けない ― 師子王の心で、ともに幸福の道へ
人生には、真面目に努力しているのに、次々と問題が重なる時期があります。
自分の仕事を手を抜かずに果たしながら、将来のためにも行動している。
それなのに、周囲から都合よく頼られたり、予定を変更してほしいと言われたり、自分の時間まで簡単に使われそうになったりする。
断れば、冷たい人だと思われるのではないか。
自分が我慢すれば、周囲がうまく収まるのではないか。
そう考えて無理を重ねているうちに、心も身体も疲れ切ってしまうことがあります。
しかし、自分の休みや予定を守ることは、わがままではありません。
休みが決まっているからこそ、通院、家族の用事、転職活動、勉強、勤行・唱題など、大切な予定を入れることができます。
変更できない日には、
「その日は予定があるため、変更できません」
と伝えてよいのです。
相手に思いやりを持つことと、自分を犠牲にし続けることは同じではありません。
自分の生命と生活を守りながら、誠実に果たすべきことを果たす。
それもまた、信仰者として大切な智慧ではないでしょうか。
🍀折伏の体験から感じたこと
先日、法華講員の方々の折伏体験を読む機会がありました。
その方々は、初めから何の悩みもない、恵まれた環境にいたわけではありません。
病気、経済苦、家庭不和、人間関係、仕事上の苦難など、私には想像できないほど厳しい状況の中で、御本尊様への信心を貫いてこられました。
さらに、折伏したことによって反対され、悪口を言われ、ときには怒鳴られることもあったそうです。
それでも相手を憎むことなく、唱題を重ね、その人の幸福を祈り続ける。
そして、自分自身も信心を深め、苦難を一つずつ乗り越え、後になって大きな功徳を実感する。
その体験に触れ、私は、
「本当に強い人とは、苦難に遭わない人ではなく、苦難の中でも信心を手放さなかった人なのだ」
と感じました。
折伏は、自分の正しさを相手に認めさせるためのものではありません。
相手に不幸になってほしくない。
正法を知り、共に幸福になってほしい。
その一念から、勇気を出して仏法を伝える行いです。
🍀正法を行ずれば、障魔が競い起こる
日蓮大聖人様は『兄弟抄』に、
「魔競はずは正法と知るべからず」
と仰せです。
さらに『摩訶止観』の文を引かれ、
「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる」
と御教示されています。
正法を信じ、真剣に修行を進めようとするとき、その信心を妨げようとする三障四魔が、入り乱れて起こることがあるという意味です。
そして、
「随ふべからず畏るべからず」
と示されています。
障魔に従ってはならない。
また、恐れて信心をやめてもならない。
この御文は日蓮大聖人様御自身だけでなく、門下にとって未来までの明鏡であると説かれています。日蓮正宗寺院の御法話でも、信心を深め、折伏に進むときに起こる障魔へ屈せず、強盛な信心で乗り越えることが大切だと解説されています。
ただし、生活で起こる問題を、何でもすぐに、
「これは折伏したから起きた難だ」
「罪障が出ているから苦しいのだ」
と決めつけることには、慎重でありたいと思います。
体調不良には医学的な原因があり、職場の問題には人員配置や労働環境など、現実的な原因があります。
必要なときには医療機関や相談窓口を利用し、職場でも断るべきことは断り、安全を守ることが大切です。
そのうえで、どのような苦難に直面しても、御本尊様への信心を失わず、唱題によって智慧と勇気をいただき、正しく行動して乗り越えていく。
そうすることで、苦難を罪障消滅と生命の成長へ転じていくことができるのだと思います。
🍀苦難は、信心が間違っている証拠ではない
信仰しているのに苦しいことが起きると、
「御本尊様に守られていないのではないか」
「自分の信心が弱いからではないか」
と不安になることがあります。
しかし日蓮大聖人様は『開目抄』に、
「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし」
と仰せです。
日蓮正宗大円寺の御書講義でも、この御文は、諸難の中でも疑いを起こさず信心を貫くところに、人生の根本目的である成仏への道があるとの御教示として説明されています。
難が起きたこと自体が、信心の間違いを示すのではありません。
大切なのは、難に遭ったときに、御本尊様から離れないことです。
苦しみながらでも題目を唱える。
現実に必要な行動を起こす。
助けを求めるべきときには、助けを求める。
そして、苦難を乗り越えた体験を、今度は同じ悩みを持つ人のために生かしていく。
その積み重ねが、自分の境涯を大きく変えていくのではないでしょうか。
🍀反対した人の不幸を「罰」と決めつけない
折伏の体験談の中には、正法を誹謗した人が、後に事業の失敗、借金、病気、家庭問題など、思いがけない苦境に直面したという話もあります。
御書には、法華経の行者を軽んじ、正法を誹謗する罪の重さについて、厳しい御教示があります。
『聖人御難事』には、
「法華経の行者を軽賤する王臣万民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」
と仰せです。
正法を軽んじ、法華経の行者を迫害することは、重大な悪因を積むことになるとの厳しい警告です。
けれども、この御文を使って、他人に起きた個々の不幸を、
「折伏を断ったから倒産した」
「悪口を言ったから病気になった」
「罰が当たって当然だ」
と、私たちが断定することは慎まなければならないと思います。
経済的な破綻や病気には、現実上のさまざまな要因があります。
私たち凡夫には、その人の過去から現在までのすべての因果を見通すことはできません。
また、誰かの不幸を見て喜んだり、
「私を誹謗したから、そのような目に遭った」
と優越感を持ったりすれば、慈悲から遠ざかってしまいます。
正法誹謗の罪の重さを知る目的は、相手の不幸を待つためではありません。
その人に不幸になってほしくないからこそ、誠実に正法を伝えるためです。
もし相手が苦境に陥ったなら、
「罰が当たった」
と責めるのではなく、
「今からでも、共に幸福への道を歩みませんか」
と手を差し伸べる。
そこに、折伏する者の慈悲があるのではないでしょうか。
🍀怒鳴られても、すべてを耐え続ける必要はない
折伏をすると、反発されたり、悪口を言われたりすることがあります。
そのとき、感情的に言い返さず、相手の幸福を祈り続ける先輩方の姿は、本当に尊いと思います。
しかし、信心とは、暴言、威圧、暴力、執拗な嫌がらせに、無期限に耐え続けることではありません。
相手が話を聞ける状態でなければ、
「今日はここまでにします」
と、その場を離れてもよいのです。
身の危険を感じる場合には、安全な場所へ移り、必要な助けを求めることが大切です。
一度で話を聞いてもらえなかったからといって、その人の幸福を諦める必要はありません。
距離を置きながら唱題し、相手が話を聞ける時期を待つこともあります。
折伏は、相手を言い負かすことではありません。
相手の生命を尊重し、幸福を願い続けることです。
そして、自分自身の生命も同じように大切に守ることです。
🍀師子王の心を取り出す
日蓮大聖人様は、迫害の中にいた門下へ、
「各各師子王の心を取り出して、いかに人をどすともをづる事なかれ」
と励まされています。
さらに、
「月月・日日につより給へ」
と仰せです。
昨日より今日、今日より明日へと、少しずつ信心を強くしていきなさいとの御教示です。
師子王の心とは、何も怖く感じないことではないと思います。
怖くても御本尊様の前へ座ること。
落ち込んでも、もう一度題目を唱えること。
疲れていても、自分にできる一歩を探すこと。
相手に拒絶されても、その人の幸福まで諦めないこと。
そして、誰にも理解されないように感じるときにも、御本尊様への信心を手放さないこと。
それが、私たち凡夫が取り出す「師子王の心」ではないでしょうか。
🍀落ち込んでいる方へ
今、仕事や人間関係に疲れ、
「どれだけ頑張っても報われない」
「自分ばかりが利用されている」
「もう何もする気になれない」
と感じている方がいるかもしれません。
人のために動くことは尊いことです。
しかし、あなたの優しさは、誰かが都合よく使うためにあるのではありません。
変更できない予定を守ってよいのです。
疲れているときには、休んでよいのです。
一人で抱えられない問題は、誰かに相談してよいのです。
そして、心が折れそうなときには、御本尊様の前で、きれいな言葉に整えなくても、ありのままの苦しみを申し上げてよいのです。
「もう疲れました」
「悔しいです」
「どうすればよいか分かりません」
「この状況を乗り越える智慧をください」
その思いを、南無妙法蓮華経のお題目に込めてください。
今すぐすべてが解決しなくても、唱題の中から、次にすべき一歩が見えてくることがあります。
断る勇気が生まれることがあります。
助けてくれる人との縁が開けることがあります。
自分を苦しめていた相手への執着や恨みから、少しずつ自由になれることもあります。
御本尊様への祈りを根本として、現実の行動を重ねていく。
その先に、自分でも想像できなかった道が開かれるのだと思います。
🍀ブログから始める折伏
私は、対面での折伏がなかなかできず、悩むことがあります。
話を切り出す勇気が出ない。
断られることが怖い。
自分の説明で、正法を誤解されたらどうしよう。
そのように迷うことがあります。
それでも、何もしなければ、正法を知らないまま苦しみ続ける人へ、言葉は届きません。
だから私は、まずブログを書くことから始めたいと思います。
ブログは、相手の都合のよい時間に、静かに読んでもらうことができます。
今は関心がなくても、人生の苦難に直面したとき、
「以前、こんな記事を見た」
と思い出してもらえるかもしれません。
そして、
「少し信仰の話を聞いてみたい」
「近くの日蓮正宗寺院へ行ってみたい」
と思う方が、一人でも現れるかもしれません。
ブログを書くだけで、折伏のすべてが完了するわけではありません。
しかし、誰かが正法に出会う入口をつくることはできます。
一人の幸福を願って、御書を紹介する。
読んでくださる方の苦しみに寄り添う。
質問があれば、一緒に考え、一緒に祈る。
そして必要なときには、日蓮正宗の寺院へつなぐ。
それが、今の私にできる折伏の一歩です。
🍀共に祈り、共に幸福になるために
折伏する側だけが上で、教えられる側が下なのではありません。
私たちも迷い、悩み、苦しむ凡夫です。
だからこそ、
「あなたは間違っている」
と見下ろすのではなく、
「私も悩みながら信心を続けています」
「一緒に祈りませんか」
「共に幸福への道を歩みませんか」
と伝えたいと思います。
相手の不幸を恐怖で煽るのではなく、正法に出会える希望を伝える。
功徳を誇るのではなく、御本尊様への感謝を伝える。
反対されても相手を憎まず、しかし自分の安全と尊厳も守る。
そして、自分自身も御書に照らし、言葉と行動を改め続ける。
そのような折伏をしていきたいと思います。
私は、まだ十分に強い信心を持っているとは言えません。
思うように折伏できず、落ち込むこともあります。
それでも、御本尊様の前に座り、もう一度立ち上がります。
一人でも多くの方が、不幸の道から離れ、正法に出会えるように。
今、苦しんでいる方が、自分の生命に希望を取り戻せるように。
そして、私自身も自分の弱い心に負けず、必ず幸福になるために。
「各各師子王の心を取り出して」
この御言葉を胸に、今日できる折伏の一歩を進めてまいります。
南無妙法蓮華経
今日の問いかけ
今、あなたが「もう無理かもしれない」と感じていることは何でしょうか。
その苦しみを一人で抱え込まず、御本尊様にありのまま申し上げ、今日できる一歩を一緒に探してみませんか。

🌸注意事項
こちらのブログは、日蓮正宗の公式見解ではなく、信徒である私個人の体験や考えをもとに執筆しております。
そのため、日蓮正宗を代表する見解ではございません。あらかじめご了承ください。
記事内で紹介する体験談は、個人の信仰体験です。同じ実践によって、すべての方に同じ結果が現れることを保証するものではありません。また、他人に起きた病気、事故、経済苦などを、第三者が「仏罰」と断定することを目的とするものでもありません。
心身の不調が続く場合や、職場・家庭で暴言、威圧、暴力などの問題がある場合は、信仰だけで抱え込まず、医療機関や適切な相談窓口へご相談ください。
少しでも日蓮正宗の信仰にご興味をお持ちになりましたら、お近くの日蓮正宗の寺院へご連絡いただき、ご住職様にお話を伺っていただければ幸いです。
また、「信仰について少し聞いてみたい」「ブログの内容について質問したい」という方は、下記メールアドレスまでお気軽にご連絡ください。
※ご返信までにお時間をいただく場合がございます。また、誹謗中傷や営業目的のメールには返信いたしかねますので、ご了承ください。
本日も最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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