冬は必ず春となる ― 悪世末法を生きる⑲
🌺四悪趣に支配されないために ― 十界互具が教える生命の変革
最近、仏教のお話の中で、「四悪趣(しあくしゅ)」という言葉を耳にしました。
四悪趣とは、十界のうち、
- 地獄界
- 餓鬼界
- 畜生界
- 修羅界
の四つを指します。
「悪趣」と聞くと、死後に堕ちる恐ろしい世界や、特別に悪い人だけが行く場所を想像するかもしれません。
しかし、法華経の十界互具の教えに照らせば、四悪趣は遠い世界の話だけではありません。
怒りに支配されること。
欲望を満たしても、なお満足できないこと。
目先の利益だけを追い、善悪を見失うこと。
人と比べ、勝つことばかりを求めること。
これらは、私たち一人ひとりの生命にも現れる境涯です。
そして、四悪趣の生命が社会全体に広がったとき、人々は互いを思いやる心を失い、差別、搾取、暴力、さらには戦争へと進んでしまう危険があります。
だからこそ、四悪趣を学ぶことは、誰かを悪人と決めつけるためではなく、自分の生命を見つめ、人を傷つける方向へ心が傾いていないかを確かめるために大切なのだと思います。
🌺日蓮大聖人様が示された十界
日蓮大聖人様は『観心本尊抄』に、私たちの生命に現れる六道の姿について、
「或時は喜び、或時は瞋り、或時は平らかに、或時は貪り現じ、或時は癡か現じ、或時は諂曲なり。瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり」
と仰せです。
私たちは、いつも同じ心で生きているわけではありません。
あるときは喜び、あるときは怒り、あるときは穏やかになり、またあるときは欲望や嫉妬に心を奪われます。
つまり、十界とは、人間を十種類に分け、
「あの人は地獄界の人だ」
「あの人は修羅界だから救われない」
と分類するための教えではありません。
一人の生命の中に十界すべてが具わり、縁に触れて、そのいずれかが現れると説かれているのです。これが十界互具の基本です。日蓮正宗の教学資料でも、地獄界から仏界までの各界が互いに十界を具え、地獄のような苦しみの中にある生命にも仏界が具わると説明されています。
🌺地獄界――怒りと苦しみに縛られた生命
日蓮大聖人様は、
「瞋るは地獄」
と仰せです。
地獄界とは、単に怒っている状態だけではありません。
苦しみに生命を縛られ、何を見ても希望を感じられず、自分も周囲も憎まずにはいられないような境涯です。
自分の思い通りにならないことへの激しい怒り。
傷つけられたことへの消えない恨み。
「自分だけが、なぜこのような目に遭うのか」という絶望。
その苦しみがあまりにも深くなると、人は自分を傷つけたり、他人にも同じ苦しみを与えたりすることがあります。
しかし、地獄界に苦しんでいる人を、さらに責めてはなりません。
その人の怒りの奥には、誰にも理解されなかった悲しみや、長い間耐えてきた痛みが隠れているかもしれないからです。
必要なのは、
「怒るあなたが悪い」
と切り捨てることではなく、苦しみから抜け出せるように寄り添うことです。
🌺餓鬼界――手に入れても満足できない生命
日蓮大聖人様は、
「貪るは餓鬼」
と仰せです。
餓鬼界とは、欲しいものを求め続け、手に入れても満足できない境涯です。
お金、地位、名誉、権力、物、食べ物、他人からの評価――。
それらを求めること自体が、すべて悪いわけではありません。
生活の安定を願い、努力して豊かさを求めることは、自然なことです。
しかし、
「もっと欲しい」
「自分だけは損をしたくない」
「他人が持っているものを奪ってでも、自分が手に入れたい」
という欲望に支配されれば、どれほど所有しても心は満たされません。
利益のために人を利用する。
自分さえ豊かになれば、他人が苦しんでも構わない。
そのような餓鬼界の生命が社会を覆えば、貧富の差や搾取が拡大し、人と人との信頼も失われていきます。
🌺畜生界――道理より目先の利益を選ぶ生命
日蓮大聖人様は、
「癡かは畜生」
と仰せです。
ここでいう「癡か」とは、学歴や知識の有無を指すものではありません。
物事の因果や善悪を見ようとせず、目先の利益や本能に引きずられてしまう心です。
嘘をつけば、やがて信用を失う。
人を傷つければ、その苦しみが新たな憎しみを生む。
環境を破壊し続ければ、未来の世代が困る。
それが分かっていても、
「今、自分が得をすればよい」
と行動してしまうところに、畜生界の恐ろしさがあります。
また、強い人には従い、弱い人には威張る。
自分より弱い立場の人を見下し、攻撃する。
このような弱肉強食の考え方も、畜生界の生命の現れです。
人間には、理性も良心もあります。
しかし、それを働かせず、力の強い者が勝てばよいという社会になれば、人の尊厳は簡単に踏みにじられてしまいます。
🌺修羅界――人と比べ、勝つことを求める生命
日蓮大聖人様は、
「諂曲なるは修羅」
と仰せです。
諂曲とは、自分の本心を曲げて強い者にはへつらい、弱い者には威張るような、ねじ曲がった心を意味します。
修羅界は、常に自分と他人を比べ、
「自分のほうが上でなければならない」
「相手に負けたくない」
「自分こそ正しいと認めさせたい」
と争い続ける境涯です。
努力して向上しようとすることと、人を負かして優越感を得ようとすることは違います。
向上心は、自分を成長させます。
しかし修羅界の勝他の念は、自分の価値を確かめるために、他人を見下し、傷つけようとします。
表面では笑顔を見せながら、心の中では嫉妬する。
自分より立場の強い人には従い、弱い人には冷たくする。
相手の幸福よりも、自分が勝つことを優先する。
この生命が強くなれば、家庭でも、職場でも、信仰の組織の中でさえ、人と人との間に争いが生まれます。
日蓮正宗の寺院による解説でも、修羅界の諂曲について、強い相手の前では縮こまり、弱い相手には大きく出る生命の姿として説明されています。
🌺「四悪趣の人が多いと戦争になる」とは
「四悪趣の人が多くなると、戦争が起こる」と言われることがあります。
ただし、ここで注意したいのは、四悪趣という固定された種類の人が存在し、その人たちだけが戦争を起こすという意味ではないことです。
十界互具である以上、四悪趣の生命は誰の中にもあります。
怒りに支配された地獄界。
資源、領土、利益を際限なく求める餓鬼界。
人命や未来を顧みず、目先の利益を選ぶ畜生界。
他国や他民族に勝ち、支配しようとする修羅界。
このような生命が個人だけでなく、国家、組織、世論の中で増幅されると、相手を同じ人間として見る心が失われていきます。
相手を敵と決めつける。
自分たちだけが正しいと思い込む。
弱い人々の犠牲を仕方がないものとして扱う。
対話よりも、威圧や暴力を選ぶ。
その積み重ねが、差別、迫害、紛争、そして戦争へつながる可能性があります。
日蓮大聖人様は『立正安国論』の中で、人々が善心を失い、殺害や争いが広がり、互いに欺き合う社会の姿を経文によって示されました。
しかし、現実の戦争には、政治、領土、資源、経済、安全保障、歴史など、多くの要因があります。
ですから、特定の戦争を見て、
「国民の四悪趣が強いから起きた」
と、苦しんでいる人々に責任を負わせることはできません。
仏法から学べるのは、戦争を生む制度や社会状況に加えて、その制度を動かす人間の生命に、貪り、怒り、無知、勝他の念が広がっていないかを見つめることです。
🌺十界互具とは、誰にでも変われる可能性があること
十界互具とは、十界の一つ一つに、さらに十界すべてが具わっていることをいいます。
十界が互いに十界を具えるため、合わせて百界となります。
これは、私たちの生命が、永遠に一つの境涯へ固定されているのではないことを表しています。
地獄界の苦しみに沈んでいる人にも、仏界があります。
餓鬼界の欲望に支配されている人にも、人を思いやる菩薩界があります。
畜生界の生命が強く現れている人にも、道理を求める声聞界や縁覚界があります。
争い続けてきた修羅界の人にも、穏やかな人界と慈悲の菩薩界、そして仏界が具わっています。
日蓮大聖人様は『観心本尊抄』に、
「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」
と仰せです。
私たち末法の凡夫が法華経を信じることができるのは、人界の生命にも仏界が具わっているからである、と示されています。
今までどのような生き方をしてきたとしても、その人の生命から仏界が失われるわけではありません。
人は、変わることができるのです。
🌺地獄も仏界も、自分の胸の中にある
日蓮大聖人様は『上野殿後家尼御返事』に、
「浄土と云ふも地獄と云ふも外には候はず、たゞ我等がむねの間にあり。これをさとるを仏といふ。これにまようを凡夫と云ふ」
と仰せです。
地獄も浄土も、自分の生命と無関係な遠い場所にだけ存在するのではありません。
同じ場所にいても、怒りと恨みに支配されていれば、その人の生命には地獄界が現れます。
反対に、苦難の中にあっても御本尊様を信じ、人の幸福を願う心を失わなければ、その生命には仏界や菩薩界が現れます。この御文と十界については、日蓮正宗法華講の寺院資料でも同様に説明されています。
環境だけが変われば、必ず幸せになれるとは限りません。
地位が上がっても、財産が増えても、心が修羅界や餓鬼界に支配されたままであれば、争いと不満はなくならないからです。
大切なのは、自分の生命の根本を変えていくことです。
🌺信心を続けると、荒れた心も変わっていく
日蓮正宗の信仰を始めたからといって、その瞬間から性格上の問題がすべてなくなるわけではありません。
信仰をしていても、腹が立つことはあります。
嫉妬することも、欲に迷うことも、人を傷つけてしまうこともあります。
信仰年数が長ければ、自動的に誰よりも思いやり深くなるというものでもありません。
しかし、御本尊様に向かって勤行・唱題を重ね、御書を学び、自分の言葉と行動を振り返る中で、少しずつ生命の向きは変わっていきます。
以前なら、怒りのまま言い返していたところで、一度立ち止まれるようになる。
自分の利益だけを考えていた人が、相手の事情にも心を向けられるようになる。
間違いを認められなかった人が、素直に謝れるようになる。
狭かった心が少しずつ広がり、人の幸福を祈れるようになる。
苦しみに支配されていた人が、今度は同じ苦しみを抱える人を励ませるようになる。
これは、自分の中に存在しなかった優しさを、外から新しく付け足すことではありません。
もともと生命に具わっていた菩薩界や仏界が、御本尊様への信心によって現れてくる姿なのだと思います。
日蓮大聖人様は『当体義抄』に、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて」
と仰せです。
煩悩を抱えた私たちが、別の人間に入れ替わるのではありません。
悩みや苦しみを抱えたその生命のまま、御本尊様への信心によって、迷いを智慧へ、苦しみを人を救う力へと転じていくことができるのです。
🌺信仰者こそ、自分の四悪趣を見つめる
四悪趣について学ぶと、つい、
「あの人は修羅界が強い」
「あの人は欲深いから餓鬼界だ」
と、他人に当てはめたくなることがあります。
しかし、本当に見つめるべきなのは、自分自身の生命です。
自分の考えに従わない人へ、怒りをぶつけていないでしょうか。
信仰を理由に、人より自分のほうが上だと思っていないでしょうか。
役職、信仰年数、参詣、供養、折伏の成果などを、人と競う材料にしていないでしょうか。
悩みを話してくれた人に、
「題目が足りない」
「信心が弱い」
と、相手の苦しみを理解しないまま決めつけていないでしょうか。
正法を信仰していても、人を見下し、傷つけ、思いやりを失ってしまえば、そこには修羅界や畜生界の生命が現れています。
信仰とは、自分の正しさを証明するためのものではありません。
自分の迷いを見つめ、御本尊様の前で心を正し、人を幸福へ導ける自分へ変わるためのものです。
🌺人を思いやれる生命へ
人が人を思いやること。
苦しんでいる人の話を、途中で遮らずに聞くこと。
自分とは違う立場の人にも、事情があると想像すること。
間違いを犯した人に対しても、改める道があると信じること。
自分だけの幸福ではなく、周囲の人々の幸福と社会の平和を願うこと。
その一つ一つが、四悪趣に支配されない生き方につながるのだと思います。
日蓮大聖人様は『立正安国論』に、
「汝須く一身の安堵を思はば先づ四表の静謐を禱らん者か」
と仰せです。
自分一人の安穏を願うならば、まず社会全体の平和を祈るべきである、という御教示です。
自分さえ幸福なら、それでよいのではありません。
自分の家族だけが無事なら、ほかの人が苦しんでもよいのではありません。
一人の生命が変われば、その人の言葉が変わります。
言葉が変われば、家庭や職場の人間関係も変わります。
人を敵として見る生命から、人の幸福を願う生命へ。
奪う生命から、分かち合う生命へ。
勝つことだけを求める生命から、共に幸福になる道を探す生命へ。
その変革を一人ひとりが積み重ねることが、争いを減らし、戦争を生まない社会への確かな一歩になるのではないでしょうか。
🌺誰の生命にも仏界がある
四悪趣は、私たちの生命の中に確かに存在します。
しかし、四悪趣だけが私たちのすべてではありません。
どれほど怒りの強い人にも、優しい心があります。
どれほど欲深く見える人にも、人の幸福を喜ぶ心が眠っています。
どれほど荒々しい生き方をしてきた人にも、過ちを改め、人を守り、慈しむ生命が具わっています。
十界互具は、人間の醜さだけを明かす教えではありません。
最も深い地獄界の中にも仏界があり、誰もが生命を変革できることを教える、希望の法門です。
だからこそ、私たちは人を簡単に見捨ててはならないのだと思います。
そして、自分自身についても、
「私は性格が悪いから変われない」
「今まで多くの間違いを犯したから、もう遅い」
と諦める必要はありません。
今日から、御本尊様に向かって唱題する。
今日から、相手の話を少し丁寧に聞く。
今日から、自分の過ちを一つ改める。
今日から、一人の幸福を真剣に祈る。
その小さな一歩から、生命に具わる仏界は輝き始めます。
四悪趣に振り回される自分から、人を思いやり、励まし、守ることのできる自分へ。
自分だけの幸福を求める生き方から、すべての人の幸福と平和を願う生き方へ。
御本尊様への信心を根本として、共に生命を磨き、温かな社会を築いてまいりましょう。
南無妙法蓮華経

今日の問いかけ
今の自分の心には、地獄・餓鬼・畜生・修羅のうち、どの生命が強く現れているでしょうか。
そして今日、身近な一人のために、どのような思いやりを行動に表すことができるでしょうか。
🌸注意事項
こちらのブログは、日蓮正宗の公式見解ではなく、信徒である私個人の体験や考えをもとに執筆しております。
そのため、日蓮正宗を代表する見解ではございません。あらかじめご了承ください。
少しでもご興味をお持ちになりましたら、お近くの日蓮正宗の寺院へご連絡いただき、ご住職様にお話を伺っていただければ幸いです。
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