生年月日1965年6月24日
出身地:徳島県

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第18回

ブログ

冬は必ず春となる ― 悪世末法を生きる⑱

🌸人生は平等ではない。それでも、すべての人に仏界がある

人は、同じ条件で生まれてくるわけではありません。

裕福な家庭で育ち、学びたいことを自由に学べる人がいます。

一方で、生活費や学費を自分で稼ぎながら学校へ通う人もいます。

健康や才能に恵まれる人もいれば、幼い頃から病気、障がい、家族の問題、貧困、差別などを抱えながら生きる人もいます。

周囲から支えてもらえる人もいれば、困っていても頼れる人がおらず、一人で涙を流しながら頑張ってきた人もいます。

年齢を重ねて振り返ると、

「人生は、決して同じ場所から始まっているのではない」

と感じます。

では、仏法における「平等」とは、どのような意味なのでしょうか。

日蓮大聖人様は、人生の違いや苦しみをどのように御覧になっていたのでしょうか。

🌸生まれた環境や条件は、同じではない

「すべての人は平等です」と言われても、現実を見れば、すぐには納得できないことがあります。

生まれた家庭。

経済的な余裕。

受けられる教育。

健康状態。

容姿や才能。

住んでいる地域。

家族から受けられる愛情や支援。

人生の出発点から、さまざまな違いがあります。

同じだけ努力したとしても、全員が同じ結果を得られるとは限りません。

十分な時間と環境を与えられて努力する人と、家族を支え、生活費を稼ぎ、疲れた身体で努力する人とでは、背負っているものが違います。

結果だけを比べて、

「成功した人は努力した」

「うまくいかなかった人は努力しなかった」

と決めつけることはできません。

人には見えないところで、生活を守るため、家族に迷惑をかけないため、悔しさや屈辱に耐えながら努力してきた人がいるからです。

その一方で、立ち上がれなかった人にも、その人にしか分からない事情があったのかもしれません。

何度努力しても報われず、

「これ以上頑張っても、どうせ良くならない」

と思うほど、心が傷ついていたのかもしれません。

何もしなかったように見える人が、実際には今日一日を生き抜くだけで精いっぱいだったこともあります。

人の人生は、外から見ただけでは分かりません。

🌸仏法の平等は、全員が同じという意味ではない

日蓮大聖人様は『一念三千法門』に、次のように仰せです。

「凡そ此の経は悪人・女人・二乗・闡提を簡ばず。故に皆成仏道とも云ひ、又平等大慧とも云ふ」

法華経は、悪人、女人、二乗、一闡提であるからといって、誰かを選び分けて排除することはない。

すべての人に成仏への道が開かれているため、「皆成仏道」「平等大慧」と呼ばれるという御教示です。日蓮正宗寺院の教学資料でも、この御文を通して、立場や性質にかかわらず成仏の道が開かれていることが説かれています。

ここでいう平等とは、すべての人が同じ家庭に生まれ、同じ財産、能力、健康、人生を与えられるという意味ではありません。

人間としての根本的な尊厳と、御本尊様を信じて成仏できる可能性において、差別される人は一人もいないという平等です。

裕福な人だけが成仏できるのではありません。

学歴のある人だけが尊いのでもありません。

健康な人、話すことが上手な人、組織の中で役職を持つ人だけが、仏様から認められるのでもありません。

誰の生命にも仏界が具わり、誰にも幸福境涯を開く道がある。

これが、仏法の説く根本的な平等なのだと思います。

🌸桜は桜、梅は梅として咲く

日蓮大聖人様の仏法には、「桜梅桃李」という言葉があります。

『御義口伝』には、

「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見す」

とあります。

桜は桜として咲き、梅は梅として香り、桃は桃、李は李として、それぞれの花を咲かせます。

梅が桜になる必要はありません。

咲く時期も、花の形も、色も香りも違います。

違っているから、優劣があるのではありません。

それぞれが自分の生命を開き、自分にしか咲かせられない花を咲かせるところに尊さがあります。

人の人生も同じではないでしょうか。

歩く速さも、得意なことも、背負っているものも違います。

早く結果を出す人がいれば、長い冬を越えて、ようやく花を咲かせる人もいます。

大切なのは、誰かと同じ人生を歩むことではありません。

自分の生命に具わる仏界を開き、自分にしか果たせない使命を生きることなのだと思います。

🌸頑張ることのできた人の陰にある涙

苦しい環境から立ち上がり、努力を重ねてきた人の中には、差別や屈辱を経験した方もいるでしょう。

「見返してやりたい」

「家族には迷惑をかけたくない」

「自分の人生を、このままで終わらせたくない」

そのような思いを胸に、人に見えないところで勉強し、働き、何度も失敗しながら前へ進んできたのだと思います。

その努力は、決して軽いものではありません。

結果だけを見れば順調に進んだように見えても、そこへ至るまでに、誰にも見せなかった涙があったかもしれません。

苦難を経験したからこそ、人の痛みが分かるようになることがあります。

自分も悔しい思いをしたから、人を見下さない。

自分も助けてもらえなかったから、困っている人に手を差し伸べる。

自分も孤独だったから、一人で泣いている人のそばにいられる。

悲しみは、それ自体が良いものではありません。

本来、避けられる苦しみや差別はなくしていかなければなりません。

それでも、受けた苦しみを憎しみだけで終わらせず、誰かを救う慈悲へ変えていけるなら、その人の人生は非常に尊いものになると思います。

🌸頑張れなかった人を責めない

一方で、

「苦しくても努力すれば、必ず成功できる」

と言い切ることには注意が必要です。

努力できるだけの体力や時間、安心できる居場所がない人もいます。

病気、介護、家庭環境、貧困、心の傷などによって、努力する力そのものを失っていることもあります。

同じ出来事に遭っても、耐えられる程度は人によって違います。

だから、立ち上がれない人を見て、

「努力が足りない」

「甘えている」

「信心が弱い」

と決めつけてはならないと思います。

朝起きること。

食事をすること。

人に助けを求めること。

危険な場所から離れること。

今日は何もできなかった自分を責めず、身体を休ませること。

それも、その人にとっては大きな一歩かもしれません。

努力とは、目に見える成果だけではありません。

もう一度生きようとすることも、助けを受け入れることも、その人にしか分からない尊い努力なのです。

🌸平等な慈悲とは、同じ扱いをすることではない

日蓮大聖人様は、仏様の慈悲について、親と病気の子の譬えを引かれています。

「父母の心平等ならざるには非ず、然れども病子に於ては心則ち偏に重きが如し」

親はすべての子を平等に愛しています。

しかし、その中に病気の子がいれば、その子へ特に心を配ります。

それは、ほかの子を愛していないからではありません。

苦しみの深い子に、より多くの助けが必要だからです。

大聖人様は、仏様にとって一切衆生は皆わが子であり、その中でも深い苦しみや迷いを抱える者を、病気の子のように心配されると教えられています。

この譬えから、平等とは全員を機械的に同じように扱うことではないと分かります。

同じ階段を上るために、手助けが必要な人には手を差し伸べる。

経済的に苦しい人には、その事情に応じた支えが必要です。

病気や障がいのある人には、安心して生活できる環境が必要です。

深く傷ついた人には、正論より先に、その話を聞いてくれる人が必要です。

苦しみの違いを無視して同じ扱いをすることではなく、一人ひとりの状況に応じて、誰も幸福への道から置き去りにしないこと。

それが、慈悲に基づく本当の平等ではないでしょうか。

🌸因果の教えを、人を責めるために使わない

仏法では、生命の因果が説かれています。

現在の境遇には、過去からのさまざまな原因と縁が関わっていると考えます。

しかし、他人が苦しんでいるときに、

「あなたの宿業が深いから」

「過去に悪いことをした報いだ」

と決めつけることはできません。

私たち凡夫には、その人の過去世も、生命のすべての因果も見通せないからです。

さらに、貧困や差別、暴力、不公正な制度など、社会の側が改めなければならない問題もあります。

苦しんでいる本人だけに原因と責任を負わせれば、本来正すべき不平等を見えなくしてしまいます。

因果の教えは、他人を裁くために使うのではなく、

「私は今日、未来のためにどのような原因を積むのか」

と、自分自身の生き方を見つめるために学ぶものだと思います。

過去を変えることはできません。

生まれた家庭や、すでに受けた傷を消すこともできません。

それでも、御本尊様へ唱題し、今日から善い原因を積み重ねることはできます。

それが、宿命を転換し、未来を開いていく信心なのではないでしょうか。

🌸人生の出発点は違っても、今日から原因を積める

人生は、最初から平等ではありません。

その現実を、きれいな言葉で消してしまうことはできません。

しかし、出発点が違うからといって、その人の人生の価値まで決まるわけではありません。

今まで何度失敗していても、今日から新しい原因を積むことができます。

大きなことができなくても構いません。

一遍でも真剣にお題目を唱える。

昨日より少しだけ、自分を大切にする。

必要な助けを求める。

人を傷つけたと気づいたら謝る。

苦しんでいる人へ、温かな言葉をかける。

自分のできる範囲で学び、働き、生活を整える。

その小さな一歩が、未来の果報につながっていきます。

人生の不平等を嘆くだけで終わらせず、その中から自分にできる一歩を探す。

同時に、自分より厳しい状況にいる人を「努力不足」と責めず、その人が一歩を踏み出せるよう支える。

自分の幸福を築きながら、ほかの人の幸福も願う。

それが、自行化他の信心へつながる生き方なのだと思います。

🌸悲しみを、慈悲へ変えていく

人生で悲しみを多く経験した人は、人の痛みに敏感になることがあります。

ただし、苦しんだから自動的に優しくなれるわけではありません。

苦しみが深いほど、心に怒りや恨みを抱えることもあります。

だからこそ、その悲しみを御本尊様にすべて申し上げ、唱題することが大切なのだと思います。

「なぜ、私ばかりが」

という思いを隠す必要はありません。

悔しさも、怒りも、涙も、ありのまま御本尊様へ御報告する。

そして唱題を重ねる中で、自分を苦しめた出来事に支配されるのではなく、その経験を人の幸福のために生かせる生命へ変わっていく。

悲しみを知る人だからこそ、誰かの涙に気づける。

孤独を知る人だからこそ、一人でいる人に声をかけられる。

不平等に傷ついた人だからこそ、人を差別せず、その人の尊厳を守れる。

それは、苦難に負けなかった生命の証しではないでしょうか。

🌸誰にも、その人にしか咲かせられない花がある

人生の条件は平等ではありません。

努力がいつも同じ結果になるわけでもありません。

けれども、仏様の慈悲と成仏への道から排除される人は、一人もいません。

裕福な人にも、貧しい人にも。

強い人にも、今は立ち上がれない人にも。

成功した人にも、失敗の中にいる人にも。

その生命には、等しく仏界が具わっています。

だからこそ、自分と人を比べて、

「自分には価値がない」

と決めつける必要はありません。

また、自分が努力してきたからといって、立ち上がれない人を見下す必要もありません。

桜は桜として。

梅は梅として。

桃は桃として。

李は李として。

咲く時期も、姿も違いながら、それぞれにしか咲かせられない花があります。

今はまだ冬の中にいる人もいるでしょう。

それでも、御本尊様への信心を失わず、自分にできる一歩を重ねていくならば、冬は必ず春となります。

そして自分の春を迎えたときには、まだ冬の中にいる誰かへ、温かな手を差し伸べられる人でありたいと思います。

人生は、最初から平等ではない。

しかし、誰にも仏界があり、幸福への道が閉ざされている人はいない。

その仏法の平等を信じ、自分の人生を諦めず、人の人生も決めつけず、共に幸福境涯を開いてまいりましょう。

南無妙法蓮華経


今日の問いかけ

あなたが、人に見せずに続けてきた努力は何でしょうか。

そして今、立ち上がれずにいる人が身近にいるなら、「もっと頑張って」ではなく、その人がすでに耐えてきた苦しみに目を向けてみませんか。

🌸注意事項

こちらのブログは、日蓮正宗の公式見解ではなく、信徒である私個人の体験や考えをもとに執筆しております。

そのため、日蓮正宗を代表する見解ではございません。あらかじめご了承ください。

少しでもご興味をお持ちになりましたら、お近くの日蓮正宗の寺院へご連絡いただき、ご住職様にお話を伺っていただければ幸いです。

また、「信仰について少し聞いてみたい」「ブログの内容について質問したい」という方は、下記メールアドレスまでお気軽にご連絡ください。

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本日も最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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