「一人でも大丈夫」とは言っていられない現実
最近、身近な出来事を通して、改めて「臨終正念」と「折伏」の大切さを深く考えさせられる機会がありました。
人の命は、本当に無常です。
昨日まで元気だった人が突然この世を去ることもあり、私たちは誰一人として、死を避けることはできません。
日蓮大聖人は、
「されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」
と仰せです。
今回の出来事を通して私は、「一人でも信心していれば大丈夫」と簡単には言えない現実があることを、改めて痛感しました。
私たちは普段、仕事や生活、人間関係など、目の前のことに追われています。
けれども、本当に大切なのは「どう生き、どう死を迎えるのか」ということなのだと、今回改めて考えさせられました。
ただ日蓮正宗の信仰をしているだけでは駄目なのだと思いました。
折伏をして、仏縁を広げ、眷属を増やし、共に信心できる人をつくっていくことが、どれほど大切かを感じました。
もし家族や周囲に仏法を理解する人がいなければ、臨終の時や、その後においても、本人の願い通りにならない現実があるのです。
もちろん、信仰は強制するものではありません。
しかし、だからといって何もしなければ、人は妙法を知らぬまま苦しみの中を生き、死を迎えてしまうかもしれません。
誰しも、それぞれ苦しみを抱えながら生きています。
不安、孤独、病気、人間関係、老い――人生には避けられない悩みがあります。
だからこそ、仏の境涯を持ち、妙法を弘め、折伏に身を置くことこそ、絶対の幸福へ向かう道なのではないかと思うのです。
私は、たとえ嫌われても、馬鹿にされても、それでも折伏を続けてきた方々を尊敬しています。
時には涙することもあるでしょう。
苦しくて泣く日もあるかもしれません。
しかし、人が生きている間に成し遂げなければならないことを思う時、逃げずに向き合う決断が必要なのだと感じ始めています。
嬉し涙を流す日も、きっとあると思います。
誰かが妙法に巡り合い、人生を変え、仏縁を結んでいく姿を見られるなら、それは何にも代え難い喜びだと思います。
悲しみに沈み続けているわけにはいきません。
今回の出来事を通して、私は改めて、「折伏をしていかなければならない」という思いを強くしました。
自分自身もまた、「臨終ただ今なり」の御精神を忘れず、一日一日を大切に、信心修行と折伏弘通に励んでいきたいと思います。

【注意事項】こちらのブログは、日蓮正宗の見解ではございません。あしからず、ご了承ください。また、少しでも、ご興味があれば、お近くの日蓮正宗の寺院を検索していただき、ご住職様にアポを取って、お話を聞いていただければと存じます。本日も読んでくださり、ありがとうございました。

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