生年月日1965年6月24日
出身地:徳島県

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第7回

ブログ

冬は必ず春となる ― 悪世末法を生きる⑦

🌸人を信じることと、仏法を信じること

同じ信仰をしている人なら、きっと自分の気持ちを分かってくれる。

困っている人がいれば、その苦しみに寄り添い、損得を超えて手を差し伸べてくれる。

私たちは、心のどこかで、そのように期待しているのではないでしょうか。

しかし、同じ日蓮正宗の信仰をしていても、一人ひとりの性格や考え方、人との接し方は同じではありません。

人の痛みを自分のことのように受け止められる人もいれば、心配する言葉を口にしながら、相手の本当の苦しみまでは見ようとしない人もいます。

立場の弱い人を見下したり、損得によって態度を変えたり、自分さえよければよいという言動をする人に出会うこともあります。

そのような姿を見たとき、私たちは深く傷つきます。

特に、自分が心から大切にしている信仰の中でそのような経験をすると、単なる人間関係の問題では済まされないほど、つらく感じることがあります。

「同じ信仰をしているのに、なぜ分かってもらえないのだろう」

「この人を信じて、ついていってよいのだろうか」

そのように悩むことは、決して不自然なことではないと思います。

🌸信仰していても、人間は修行の途中

信仰をしているからといって、その瞬間から人格が完成するわけではありません。

私たちは皆、貪りや怒り、愚かさをはじめとする煩悩を抱えた凡夫です。

だからこそ、御本尊様に向かって勤行・唱題に励み、自分の生命を磨き、我が身の宿業を乗り越えていく信心修行が必要なのです。

日蓮大聖人様は『一生成仏抄』に、

「只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」

と仰せられています。

磨かれていない鏡が、そのままでは曇っているように、私たちの生命も、何もしなければ煩悩に覆われてしまいます。

信仰とは、自分を立派に見せるための飾りではありません。

自分の欠点や間違いと向き合い、御本尊様に照らして、少しずつ生命を磨いていくための実践です。

したがって、同じ信仰者の中に未熟な言動をする人がいたとしても、その人の振る舞いと、日蓮大聖人様の仏法そのものを混同してはならないと思います。

一人の人間の未熟さによって、正法の尊さが失われることはないからです。

🌸人を信じることと、仏法を信じることは違う

人を信じ、互いに励まし合うことは大切です。

しかし、一人の人間を無条件に信じることと、御本尊様を信じて仏道を歩むことは、同じではありません。

立場があるから。
話が上手だから。
周囲から尊敬されているように見えるから。

それだけで、その人の言葉や行動のすべてが正しいとは限りません。

人の本当の姿は、美しい言葉だけではなく、日常の行動に表れます。

困っている人にどのように接するのか。
自分に利益がないときにも誠実でいられるのか。
弱い立場の人を見下していないか。
間違いに気づいたとき、素直に認めて修正できるのか。

その積み重ねに、その人の信仰姿勢も表れてくるのではないでしょうか。

ただし、相手の欠点が見えたとき、すぐにその人を悪い人だと決めつけることにも注意が必要です。

相手にも、自分には見えていない事情や苦しみがあるかもしれません。

私たち自身もまた、気づかないところで誰かを傷つけている可能性があります。

だからこそ、感情だけで人を裁くのではなく、まず御本尊様に真剣に唱題し、自分の見方に我意や思い込みがないかを振り返ることが大切です。判断に迷うときには、所属寺院の御住職・指導教師に率直に相談し、正しい御指導をいただくことも必要です。

🌸「心を師」としてはならない

日蓮大聖人様は『義浄房御書』に、

「相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからず」

と仰せられています。

私たちの心は、置かれた状況によって揺れ動きます。

傷つけば怒りが生まれ、裏切られたと感じれば、相手のすべてを否定したくなることもあります。

反対に、自分に優しくしてくれる人であれば、その人の間違いまで正しいと思い込んでしまうこともあります。

だからこそ、自分の感情や、特定の人の言葉だけを心の中心に置くのではなく、御本尊様を根本として、御書と御法主上人猊下の御指南に照らし、自分の信心を正していくことが大切です。

正しい信仰とは、誰かに良く思われるためのものではありません。

人から褒められているときだけ真面目に振る舞ったり、立場のある人の前だけ態度を変えたりするものでもありません。

誰も見ていないところでも、御本尊様は、私たちの心も行いも、すべてご照覧になっています。

御本尊様に、嘘はつけません。

🌸間違いに気づいたら、修正すればよい

私たちは凡夫ですから、最初から何もかも正しく判断できるわけではありません。

正しいと信じて選んだ道が、後になって間違っていたと気づくこともあります。

大切なのは、間違えないことだけではなく、間違いに気づいたとき、素直に認め、正しい道へ戻ることです。

自分の考えに執着せず、御本尊様に祈り、御書と御指南に照らして修正していく。

その謙虚さを失わないことが、信心を守るうえで大切なのだと思います。

また、相手を思いやることと、どのような言動にも耐え続けることは同じではありません。

人の幸福を祈りながらも、心身を傷つける相手とは適切な距離を置くことが必要な場合もあります。

相手を憎まないことと、相手を無条件に信用することは別です。

相手の幸福を祈る慈悲と、その人の言動を冷静に見極める智慧。その両方を持つことが大切ではないでしょうか。

🌸それでも、折伏は人を救う慈悲

人の未熟な姿を見ると、

「このような人にまで、仏法を伝えてよいのだろうか」

と思うことがあるかもしれません。

しかし、最初から人格が完成している人などいません。

悩みや迷い、欠点を持っているからこそ、正しい仏法が必要なのです。

折伏とは、立派な人だけを選び出すことではありません。

相手の現在の姿だけを見て見放すのではなく、その人の仏性を信じ、本当の幸福を願って、日蓮大聖人様の仏法を教えて差し上げる慈悲の行為です。

ただし、相手の状況や時を考えず、自分の感情だけで押しつけることが折伏ではありません。

相手の話に耳を傾け、何に苦しんでいるのかを知り、その人の幸福を御本尊様に祈りながら、誠実に正法を伝えていくことが大切です。

🌸自分自身が、仏法の尊さを示せる人に

同じ信仰者の言動に失望したとき、私たちにできる最も大切なことは、仏法から離れることでも、相手を責め続けることでもありません。

「自分は、御本尊様に恥じない生き方をしよう」

と、あらためて決意することだと思います。

人を見下さない。
損得だけで人を選ばない。
困っている人の話に耳を傾ける。
自分の間違いに気づいたら、素直に謝り、修正する。
そして、縁ある人の幸福を願って折伏に励む。

その一つひとつの行動を通して、日蓮大聖人様の仏法の尊さを示していくことができます。

人は、言葉だけではなく、私たちの生き方を見ています。

だからこそ、自分自身が信心によって変わり、慈悲深く、誠実な人間へと成長していくことが、何より大切なのだと思います。

人を信じることと、仏法を信じることは同じではありません。

人の未熟さに傷つくことがあっても、御本尊様への信心を見失わず、迷ったときには正しい御指導を求め、間違ったときには修正しながら歩んでいく。

御本尊様は、その心も、努力も、すべてご照覧くださっています。

誰かに立派だと思われるためではなく、御本尊様に照らして恥じない自分であるために――。

今日も勤行・唱題を根本に、自分の生命を磨きながら、誠実に信心の道を歩んでまいりましょう。

南無妙法蓮華経


今日の問いかけ

あなたは、人の言動によって、信仰まで見失いそうになった経験はありませんか。

その苦しみを一人で抱え込まず、まず御本尊様にすべてを御祈念し、自分の信心をもう一度、静かに見つめ直してみませんか。

🌸注意事項

こちらのブログは、日蓮正宗の公式見解ではなく、信徒である私個人の体験や考えをもとに執筆しております。

そのため、日蓮正宗を代表する見解ではございません。あらかじめご了承ください。

少しでもご興味をお持ちになりましたら、お近くの日蓮正宗の寺院へご連絡いただき、ご住職様にお話を伺っていただければ幸いです。

また、「信仰について少し聞いてみたい」「ブログの内容について質問したい」という方は、下記メールアドレスまでお気軽にご連絡ください。

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本日も最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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