冬は必ず春となる ― 悪世末法を生きる⑳
🌸祈り抜く命は道を開く ― 弱い私が立ち上がるとき
先日、御本尊様の前に座り、一日に三時間、四時間と唱題を重ねてこられた方の体験発表を聞く機会がありました。
その方に現れた功徳の大きさは、本当に目を見張るようなものでした。
しかし、私が最も心を打たれたのは、願いがかなったという結果だけではありません。
長い時間、御本尊様の前から離れず、自分の生命と向き合い、誰かを恨むことなく祈り続けた、その信心の姿勢でした。
人は苦難に遭うと、
「どうして自分だけが、このような目に遭うのか」
「あの人のせいで、自分は不幸になった」
と考えてしまうことがあります。
それは無理もないことです。
病気や生活上の苦しみが深ければ、心に余裕を失い、誰かを責めたくなることもあるでしょう。
けれども、その方は人を恨むことに生命を使うのではなく、御本尊様に向かい、自分の宿命を乗り越えるために唱題を続けました。
その姿から私は、祈りとは、相手を変えようとする前に、自分の生命を変革していく戦いなのだと、あらためて教えていただいた気がしました。
🌸「病によりて道心はをこり候なり」
日蓮大聖人様は『妙心尼御前御返事』に、
「病によりて道心はをこり候なり」
と仰せです。
病気を経験したことによって、初めて命の尊さに気づくことがあります。
当たり前だと思っていた一日が、決して当たり前ではなかったと知ることがあります。
そして、今まで仏法に関心を持たなかった人が、
「自分は何のために生きているのだろう」
「本当の幸福とは何だろう」
「この苦しみに、どのような意味があるのだろう」
と、人生の根本を真剣に考え始める場合があります。
日蓮正宗の寺院資料でも、この御文を通して、病気を契機として仏道を求める心が起こることがあると説明されています。
ただし、この御文を、病気で苦しむ人に向かって、
「仏様が病気にしたのだから、ありがたいと思いなさい」
「病気になったのは、あなたの信心が弱いからだ」
と押しつけてはならないと思います。
病気には医学的な原因があり、診察や治療を受けることが大切です。
信心は、医療を拒むことでも、苦痛を我慢することでもありません。
また、他人の病気の意味を、私たちが勝手に決めることもできません。
しかし、病気を経験した本人が、後になって、
「あの病気があったから、真剣に信心と向き合えた」
「あの苦しみが、御本尊様の前に座るきっかけになった」
と、自らの生命で意味を見いだすことはあります。
苦難そのものを美化するのではなく、その苦難に人生のすべてを奪わせず、信心によって幸福への転機に変えていく。
そこに、「病によりて道心はをこり候なり」という御言葉の深い希望があるのだと思います。
🌸三時間、四時間の唱題が教えてくれたもの
御本尊様の前に三時間、四時間と座り続けることは、簡単なことではありません。
足が痛くなることもあるでしょう。
雑念が浮かび、集中できない時間もあるでしょう。
祈ってもすぐに変化が見えず、
「本当にかなうのだろうか」
と迷う日もあるでしょう。
それでも座り続け、南無妙法蓮華経と唱え続ける。
その姿には、
「この宿命を、必ず乗り越える」
「人を恨む生命には負けない」
「御本尊様を信じ抜く」
という、強い決意があります。
長時間唱題の尊さは、単に唱えた時間の数字だけにあるのではないと思います。
祈りを途中で投げ出さず、自分の弱い心に向き合い、御本尊様を信じて生命を変えようとする、その真剣さにあるのではないでしょうか。
日蓮大聖人様は『祈祷抄』に、
「大地はさゝばはづるゝとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」
と仰せです。
たとえ大地を刺して外れるようなことがあっても、太陽が西から昇るようなことがあっても、法華経の行者の祈りがかなわないことはない、との力強い御金言です。
また、日寛上人は、
「此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅びざるなく、福として来たらざるなく、理として顕れざるなきなり」
と御指南されています。
だからこそ私たちは、目の前の状況だけを見て諦めるのではなく、御本尊様に向かって祈り続けることが大切なのだと思います。
🌸祈りがかなう形は、一つではない
ただし、「祈りがかなう」ということを、自分が望んだ出来事が、望んだ時期に、そのまま実現することだけに限定してはならないと思います。
もちろん、病気が回復することや、生活上の問題が解決することも、尊い功徳です。
しかし、ときには自分が最初に願っていた形とは違う道が開くこともあります。
問題そのものがすぐに消えなくても、それに押し潰されない生命力が湧いてくる。
自分を苦しめた人への恨みに支配されなくなる。
必要な治療や支援へつながる智慧が生まれる。
今まで見えなかった自分の過ちに気づく。
支えてくれる人との縁ができる。
苦しんだ経験が、同じ悩みを持つ人を励ます力へ変わる。
そのように、自分の生命と人生の方向が変わっていくことも、祈りによって現れる大切な功徳ではないでしょうか。
祈りとは、御本尊様に自分の思い通りの結果を要求することではありません。
願いを率直に申し上げながら、自分自身も努力し、必要な行動を起こし、最もよい方向へ進める生命を開いていくことなのだと思います。
🌸唱題時間で、人の信心を比べない
三時間、四時間と唱題できる生命は、本当に素晴らしいものです。
私も、その姿を見習いたいと思います。
しかし、ここで忘れてはならないことがあります。
長時間唱題できる人だけが、強い信心を持っているわけではありません。
病気や障害によって、長く座ることが難しい人もいます。
仕事、育児、介護などに追われ、自分の時間をほとんど持てない人もいます。
心身が疲れ切り、御本尊様の前に座るだけで精いっぱいの日もあります。
その人が、苦しい中で唱えた一遍のお題目を、時間が短いから価値がないと、誰が言えるでしょうか。
日蓮大聖人様は『四条金吾殿御返事』に、
「ただ心こそ大切なれ」
と仰せです。
大切なのは、ほかの人と唱題時間を競うことではありません。
その日の自分にできる精いっぱいの真心で、御本尊様へ向かうことです。
一時間唱えられる日は、一時間。
三時間挑戦できる日は、三時間。
心身がつらい日は、まず一遍からでもよいのだと思います。
もちろん、自分の限界を最初から決めつけず、唱題の時間を増やす努力も大切です。
しかし、
「何時間できなければ信心がない」
「願いがかなわないのは、題目が足りないからだ」
と、他人を責める物差しにしてはなりません。
唱題は、人より自分を立派に見せるためのものではなく、自分の生命を磨き、人を幸福へ導く力を得るためのものだからです。
🌸謗法厳戒を、自分自身の覚悟として
私は、謗法には絶対に流されないと決めています。
この決意は、誰かを憎んだり、見下したりするためのものではありません。
自分自身が迷い、正法から離れ、再び不幸への道へ戻らないための覚悟です。
正しいと信じる道を守ることと、異なる信仰を持つ人を粗末に扱うことは、同じではありません。
むしろ、謗法の恐ろしさを知っているからこそ、人に不幸になってほしくないと願う。
相手の人格を否定するのではなく、その人の幸福を祈りながら正法を伝える。
そこに、折伏の慈悲があるのだと思います。
謗法厳戒とは、他人を裁くための厳しさではありません。
まず自分の信心を濁らせないための、内なる戒めです。
怒りや慢心に任せて相手を傷つけてしまえば、正法を守っているつもりでも、相手の心を仏法から遠ざけてしまうことがあります。
だからこそ、正法に対しては厳格に、人に対しては慈悲深くありたいと思います。
🌸日蓮大聖人様の慈悲は、すべての人へ
日蓮大聖人様の大慈悲は、強い人や、特別な人だけに向けられたものではありません。
苦しみの中にいる人。
信心に迷っている人。
過ちを犯してしまった人。
まだ正法を知らない人。
自分には価値がないと思っている人。
そのすべての人に、成仏への道を開くために、南無妙法蓮華経の大法を遺してくださいました。
『観心本尊抄』には、
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」
と説かれています。
一念三千を知らない末法の私たちに対して、仏様が大慈悲を起こされ、妙法五字の中に成仏の珠を包んで授けてくださったという御意です。日蓮正宗の公式資料でも、御本尊は一切衆生の成仏と救済のために、大慈悲によって御図顕されたと説明されています。
日蓮大聖人様は、私たちを財産、地位、学歴、健康、信仰年数で選別されるのではありません。
御本尊様に向かい、南無妙法蓮華経と唱える道は、すべての人に開かれています。
誰もが同じ人生を歩むという意味ではなく、どのような境遇の人にも、信心によって仏界を開き、成仏していく可能性が平等に具わっているのです。
🌸私の周りに強い信仰者がいないなら
私の周りには、特に信仰の強い人がいないと感じることがあります。
誰にも理解してもらえないような寂しさや、正しい道が分かっているのに、それを伝えられない苦しさを感じてきました。
そのようなとき、
「もっと力のある人が現れて、広めてくれたらよいのに」
と思うこともあります。
しかし、その「誰か」を待ち続けるだけでは、何も始まりません。
私が信心によって救われたいと思っている。
私が絶対に幸福になりたいと願っている。
私が成仏したいと、心から願っている。
そして、自分だけでなく、同じように苦しんでいる人にも、この仏法を知ってほしいと思っている。
それならば、まず私自身が一歩を踏み出すしかないのだと思います。
私は、自分を弱者だと思うことがあります。
特別な力もなく、人前で上手に話せるわけでもなく、いつも確信に満ちているわけでもありません。
迷う日もあります。
疲れて、何もできない日もあります。
誰にも理解されないように感じ、泣きたくなる日もあります。
けれども、本当の強さとは、最初から迷わないことではないのかもしれません。
迷いながらも、御本尊様の前へ戻ること。
倒れても、もう一度立ち上がること。
怖くても、一人の幸福を願って声をかけること。
自分の苦しみを、人を救うための力へ変えていくこと。
それが、信心によって生まれる強さではないでしょうか。
🌸一人が立ち上がるところから始まる
広宣流布と聞くと、自分にはできないほど大きなことのように感じます。
しかし、始まりはいつも一人です。
一人が御本尊様の前に座る。
一人が本気で題目を唱える。
一人が自分の生命を変える。
一人が、誰か一人の幸福を祈る。
そして、慈悲をもって仏法を伝える。
その一歩から、正法との縁が広がっていくのだと思います。
ブログを書くことも、その一歩です。
すぐに反応がなくても、誰かが苦しみの中で記事を見つけるかもしれません。
今は信じられなくても、書かれていた御書の一節が心に残り、いつか日蓮正宗の寺院の門をたたく日が来るかもしれません。
私にできることは、小さいかもしれません。
それでも、何もしなければ届かなかった一人へ、言葉が届く可能性があります。
だから私は、自分から進みたいと思います。
誰かを恨むためではなく、誰かの幸福を願うために。
人と信心を競うためではなく、自分の宿命を乗り越えるために。
謗法を犯す人を憎むためではなく、一人でも正法へ導かれるように祈るために。
そして、私自身が必ず幸福になり、この一生で成仏の境涯を開くために。
🌸今日も、御本尊様の前から
すぐに何時間も唱題できなくても構いません。
まず御本尊様の前に座り、今の自分の思いを、ありのまま申し上げるところから始めたいと思います。
「私は幸せになりたいです」
「この苦しみに負けたくありません」
「一人でも多くの人に、正法を伝えられる自分にしてください」
「人を恨まず、慈悲をもって行動できる自分にしてください」
その願いを、南無妙法蓮華経のお題目に込めていく。
祈りの中で智慧と勇気をいただき、自分にできる行動を一つずつ起こしていく。
それを毎日積み重ねることが、宿命を転換し、自分と周囲の人々の幸福への道を開くのではないでしょうか。
弱いから、立ち上がれないのではありません。
弱さを知っているからこそ、御本尊様を求め、人の痛みに寄り添い、真剣に祈ることができます。
誰にも理解されなかった苦しみも、決して無駄ではありません。
その苦しみを知る私にしか届かない人が、きっといるからです。
今日も御本尊様の前に座り、できる限りの唱題を重ねてまいります。
自分自身が必ず幸福になるために。
一人の生命に、正法の光を届けるために。
そして、誰もが仏界を開き、成仏できる道があることを伝えるために。
南無妙法蓮華経
今日の問いかけ
今、自分が「弱いからできない」と諦めていることはないでしょうか。
たとえ小さな一歩でも、御本尊様に祈り、自分から始められることは何でしょうか。

🌸注意事項
こちらのブログは、日蓮正宗の公式見解ではなく、信徒である私個人の体験や考えをもとに執筆しております。
そのため、日蓮正宗を代表する見解ではございません。あらかじめご了承ください。
病気や体調に不安がある場合は、信仰だけで判断せず、医療機関へ相談し、必要な診察や治療を受けてください。
少しでも日蓮正宗の信仰にご興味をお持ちになりましたら、お近くの日蓮正宗の寺院へご連絡いただき、ご住職様にお話を伺っていただければ幸いです。
また、「信仰について少し聞いてみたい」「ブログの内容について質問したい」という方は、下記メールアドレスまでお気軽にご連絡ください。
※ご返信までにお時間をいただく場合がございます。また、誹謗中傷や営業目的のメールには返信いたしかねますので、ご了承ください。
本日も最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

コメント